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「ナルニア国ものがたり」

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「ナルニア国ものがたり」シリーズ 全7巻
C.S.ルイス作 瀬田貞二訳 岩波書店

 2006年3月4日公開として、今宣伝されている映画「ナルニア国物語」の原作は、1950年代に書かれたファンタジーの古典的作品です。1966年から相次いで日本でも翻訳出版されました。この機会にと、イラストがカラー彩色されて新版も出版されています。映画だけではなく、ぜひ原作も読んでみてほしい作品です。「指輪物語」とは違い、子どもを意識して書かれた物語なので、読みやすいです。翻訳も小学校3,4年以上と銘打つように、漢字や言葉使いに配慮がなされています。

 私は小学生6年生の時に、第1巻「ライオンと魔女」に出会っています。その年齢で出会えたことに感謝しています。というのは、大人になってから読み直したとき、少々物足りなく感じたからです。それでも、小中学生の頃、夢中でしかも何回も読み直した感動というものが心に残っています。本との出会いにも旬があり、あの時期に出会ったからこそ体験できた感動だったと思うのです。

 はじめての出会いは、小学校の図書館(大きな天井の高い別館で司書がいた立派な図書館)。物語の棚のめぼしいものは読んでしまったはずなのに、目に入ったまだ読んでいないこの本。興味を惹かれて、早速借りて読んでみると、不思議な世界が現れてきました。「だれもしらない小さな国」や「メアリー・ポピンズ」は知っていましたが、このようなファンタジーは読んだことがありませんでした。後書きには、シリーズがあることが記されていましたが、残りを見つけることができないうちに、小学校を卒業してしまいました。中学生になってから、あの続きが読みたいとふと思いたち、その頃街の中心に1館しかない市立図書館にわざわざ出かけたのでした。そこの児童室で無事、続刊を見つけた私は、次々を読破していきました。中学の制服で児童室に出入りすることは、当時の私には非常な勇気のいることでした(もう大人になったという自負が、児童室に出入りすることをはずかしいと思わせていた)が、「ナルニア」の続きを読みたい、面白い本を読みたい、という欲求の方が強かったということです。その後は、母に勧めて、我が家の家庭文庫で買い入れてもらいましたから、貸し出されていなければ、自由に読むことができるようになりました。中高生の時期に、何回か読み返しています。「ナルニア」らしからぬ『馬と少年』が一番好きでした。

 以前紹介した「アーサー・ランサム全集」は、就職後に新刊を1冊ずつ買い揃えました。「ナルニア」の方は、新刊でこそ買いませんでしたが、古本屋で見つけるたびに買い揃え、結局は全部揃えて持っています。「ランサム」は古本屋で見ることはほとんどありませんでしたが、「ナルニア」は、ちょこちょこ見かけたのでした。今はどうでしょうか。

 C.S.ルイスは、1898年生まれの中世英文学(つまり古典ですね)の学者でした。オクスフォードで約30年教えた後、ケンブリッジで主任教授になっています。トールキンとも親交があり、よくファンタジー論をたたかわせたという話も聞きます。ルイスは大人になってからキリスト教の信仰に目覚め、キリスト教弁証家としての著作が多数あります。彼の名が一般的に有名になったのは、たぶん雑誌に連載した『悪魔の手紙』によってだと思います。老練な悪魔が、人間を誘惑するやり方を若手の悪魔に色々教える、という体裁のものです。この「誘惑」というのは、残虐非道なことをさせるのではなく、神を信じないようにさせる、キリスト教の信仰から離れさせるという意味です。

 このような誘惑は、「ナルニア」の物語にもしばしば登場します。例えば、「ライオンと魔女」で、エドマンドが白い魔女に誘惑されるシーンです。妬みや嫉妬でいっぱいになり、自分のことしか考えられないようになったエドマンドは、その後高い代償を払わされます。実際代償を払ったのは、彼自身ではなかったのですが。それは、キリストによる救いを指し示しています。キリスト教の文化に触れて育っている人ならば、すぐに分かります。このように「ナルニア」は、子どもたちにキリスト教の真髄・精神を伝えるために描かれたファンタジーなのです。もちろん、日本の読者のように、キリスト教の素養が全くない環境で育った人でも充分楽しめるような冒険ものになっています。

 しかし、ルイスが語りたかったこと、聖書の世界の提示は、「さいごの戦い」のラストにまで如実に表されています。ですから、日本の多くの読者はこのラストを受け入れがたいのです。ルイスの信仰からすれば、このラストは必然なのですが。彼のキリスト教理解や、その提示は分かりやすく、なおかつ直喩でもパロディでもなく、わざとらしさがありません。こういう描き方があるのだという、そのことも非常に印象的な作品でした。私は思春期にこの作品をくり返し読むことで、考えるきっかけやヒントをえていたように思います。

 しかし、私も受け入れがたい点が一つだけあります。女性の扱い、特にスーザンの扱いです。まあ、ルイスはヴィクトリア朝時代に生を受けた英国紳士ですので、仕方のない部分はあります。「ライオンと魔女」で描かれた兄弟像は、イギリス中流家庭の理想像なのかもしれません。男女2人ずつの4人兄弟。長男は正義感と責任感ある騎士(ナイト)、長女は兄弟の世話をする母親がわり、次男はトリックスターで、次女は夢見がちだが物語を引っ張る。「ランサム」に出てくるウォーカ-兄弟もこの類型に当てはまります。ネズビットの「砂の妖精」も、ヒルダ・ルイスの「とぶ船」も4人兄弟が主人公で、傾向は似ています。

 スーザン・ペベンシーは、スーザン・ウォーカーほど、兄弟の世話を焼くわけではありません。食べたり寝たりのお世話は兄弟以外の大人が配慮してくれる環境にいるからです。しかし、冒険に踏みだそうというときに、引き返そうと分別くさいことを言ったりするのは同じです。また、王座についた後、ピーターは英雄王、エドマンドは正義王といわれるのに対し、スーザンやルーシーは、何をしたかではなく、多くの王や王子に求婚される存在であることがほめ言葉になっています。女は求められる男によって価値が決まるかのように。さらに、スーザンは、「さいごの戦い」で、化粧やパーティにうつつを抜かし、ナルニアをバカにしたとして、置いてきぼりをくうのです。早く大人になりたくて、子ども時代の夢や理想をバカにするようなことは、往々にしてあります。でもそれは、天国から閉め出されるほどのことでしょうか。彼女は世の要請に従って、女らしく評価されようと躍起になっているに過ぎないのです。それなのに、このような仕打ちに値するとされることは、私にはどうしても承伏できないのです。

 そのような欠点はありますが、「ナルニア国物語」は読むに値する作品です。今回改めて読み直していますが、最近のブームで大量に翻訳されている、ちょっと薄い=浅い=軽いファンタジーに比べれば、やはり上質の作品だと改めて思っているところです。

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